Samuel Bowles

授賞対象著書

Bowles, S. Microeconomics: Behavior, Institutions and Evolution, Princeton University Press, 2004.

  塩沢由典・磯谷明徳・植村博恭訳『制度と進化のミクロ経済学』NTT出版、2013年。

Bowles, S. The New Economics of Inequality and Redistribution, Cambridge University Press, 2012.

  佐藤良一・芳賀健一訳『不平等と再分配の新しい経済学』大月書店、2013年。

授賞理由

 受賞者サミュエル・ボウルズは、現在サンタフェ研究所アーサー・シュピーゲル研究教授・行動科学プログラムのディレクターの職にある。授賞対象図書はSamuel Bowles, Microeconomics: Behavior, Institutions and Evolution, Princeton University Press, 2004(塩沢由典・磯谷明徳・植村博恭訳『制度と進化のミクロ経済学』NTT出版、2013年)、及びSamuel Bowles, The New Economics of Inequality and Redistribution, Cambridge University Press(佐藤良一・芳賀健一訳『不平等と再分配の新しい経済学』大月書店、2013年)である。

 ボウルズはまず1970年代にラディカル・エコノミクスの駿英として学界に登場した。1970年代における研究業績としては、教育の経済学へネオ・マルクシアン・アプローチの適用を試みたギンタスとの共著Schooling in Capitalist America, 1976(『アメリカ資本主義と学校教育』)である。1980年代前半には、デヴィッド・ゴードン、トマス・ワイスコフとの共同研究によって1960年代後半以降のアメリカ経済における生産性停滞の問題を、階級関係を考慮したミクロ経済学モデルと計量分析によって解明した。この共同研究は、その後、「社会的蓄積構造理論」へと発展し、80年代の民主的代替政策を提起する共著Beyond the Waste Land, 1983(『アメリカ衰退の経済学』)の出版に至った。

 1980年代の半ば以降、ボウルズは「資本主義の政治経済学のための新しいミクロ的基礎」という研究プロジェクトを開始し、その中心的理論として「抗争交換理論」を提示した。それは労働市場と信用市場に不完備契約理論を適用し、市場は競争均衡においても需給一致を達成しえず、市場のショート・サイドに位置する主体は、交換相手に対してパワーを行使するという帰結を導いた。また、1980年代後半にはレギュラシオン理論のロベール・ボワイエとの共同研究を行い、抗争交換のミクロ・モデルとカレツキに由来する有効需要理論を総合するマクロ経済モデルを開発した。この共同研究が明らかにしたのは、高賃金と効率的な団体交渉制度がより高い雇用水準の保障を生むということである。

 2000年代にマサチューセッツ大学アマースト校からサンタフェ研究所に移り、そこでの刺激的な共同研究を通して、ワルラシアン・パラダイムに代替する「進化社会科学」という新しいパラダイムを構想するに至り、これが授賞対象図書であるMicroeconomics: Behavior, Institutions, and Evolutionへと結実した。

 この書は、1980年代後半以降、政治経済学的な理論問題をミクロ経済理論を援用して解明するという独自の学風を確立したボウルズが、「進化社会科学」という新たなパラダイムのもとに、不完備契約理論、進化ゲーム論、行動経済学、エージェントベース・モデルなどにおける近年の諸成果を統合した画期的な著作である。トピックは、制度変化、社会的選好、非市場的な社会的相互作用、均衡失業、信用制約、経済的パワー、一般化された収穫逓増、経路依存性などである。本書では行動経済学からの発想や成果が数多く援用され、また均衡分析だけでなく進化ゲーム論の分析手法を用いることで、歴史的かつ進化的な観点が強調されている。特に第3部では、個体群における戦略の更新過程のエージェントベース・モデル、確率的進化ゲームへの意図的集合行為の導入、多階層選択モデルによる集団内選択と集団間抗争との相互作用の分析などの先端的研究成果が示されている。

 この書は1980年代以降ボウルズが進めてきた政治経済学のミクロ的基礎付けという研究プロジェクトの到達点を示すものであると同時に、1970年代以来保持し続けた政治経済学者としての精神に貫かれた著作である。また、それは、社会科学一般のための行動論的基礎の追求作業から獲得された「強い互恵性」概念を提起した点でも斬新である。この概念は、たとえ自分自身は報酬が見込めない状況でも、他者と協力して集団規範を逸脱した者に対して懲罰を与え規範を遵守させようとする傾向である。このような社会的選好は、経済学が伝統的に扱ってきた競争と対立だけでなく、現実の世界で普通に見られる協力や相互扶助について理解を深めるものである。

 次に、The New Economics of Inequality and Redistributionであるが、本書はグローバル競争と不平等が拡大する世界における実行可能な平等主義的政策として、賃金と雇用の双方を引き上げる政策、及び「生産性促進型資産再分配」を提起し、特に後者の政策的重要性を強調している。また、現代社会における互酬性、利他主義、再分配の役割を論じている。

 本書は、Microeconomicsで精緻に展開した不完備契約に基いた分析をわかりやすく解説しており、この点でボウルズの「抗争交換理論」の一般読者向けの体系的な解説書として、高い価値を有している。また、グローバリゼーションの時代における実行可能な平等主義的政策として、「生産性促進型資産再分配」、すなわち、金融資産を再分配によって潜在的生産資源を活用し、生産性上昇を促進する政策を提起し、政治経済学に重要な貢献をおこなっている。授賞対象の2著作は、互いに補完的に読むことができる。 以上、サミュエル・ボウルズ教授は、半世紀にわたり広範な研究で世界の政治経済学をリードし、近年では新しいパラダイムにもとづく完成度の高い著書によって体系的に理論を提示するとともに政策構想をも発展させた。その業績は経済理論学会ラウトレッジ国際賞を受賞するのに最もふさわしい。